文化と両義性 (岩波現代文庫) pdfダウンロード
文化と両義性 (岩波現代文庫)
によって 山口 昌男
文化と両義性 (岩波現代文庫) pdfダウンロード - 文化と両義性 (岩波現代文庫)は必要な元帳です。 この美しい本は山口 昌男によって作成されました。 実際、この本には303ページページあります。 文化と両義性 (岩波現代文庫)は、岩波書店 (2000/5/16)の作成によりリリースされました。 文化と両義性 (岩波現代文庫)の簡単なステップでオンラインで表示できます。 ただし、ラップトップ用に保管したい場合は、ここで保存できます。
内容紹介 膠着した状況を活性化し,文化が本来もつ創造力を回復するために,風土記からロシア・フォルマリズムに及ぶ文化の広大な領野に記号論的アプローチを試みる.著者はさらに現象学を愛用しつつ,文化のもつ両義的な性格に着目し,それを分析の軸とした新たな文化理論を提起する.70年代後半以降の日本の文化界に多大な影響を与えた名著.中沢新一解説 内容(「BOOK」データベースより) 膠着した状況を活性化し、文化が本来もつ創造力を回復するために、風土記からロシア・フォルマリズムに及ぶ文化の広大な領野に記号論的アプローチを試みる。著者はさらに現象学を援用しつつ、文化のもつ両義的な性格に着目し、それを分析の軸とした新たな文化理論を提起する。70年代後半以降の日本の文化界に多大な影響を与えた名著。
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文化人類学、哲学…さまざまな学術的意味合いにおいて、本書は歴史的な名著だと思う。―私自身は、本書を以下のように読んだ―「誤読」した。通常は非現実とされる夢や妄想なども、「日常的現実」と同じように「経験的現実」のひとつである。私たちは、複数の「経験的現実」のうち、他者と共有される現実を「日常的現実」とし、それ以外については「非現実」としている。ところで―何をもって「日常的現実」とするかを決定するのは、一種の「政治力学(イデオロギー)」のようなものである。「他者と共有された『日常的現実』」として「『正当化』された『現実』」は 「一義的」かつ「中心」的な「現実」となる。。。そして、その他諸々の「現実」は、多義的で矛盾や「ゆらぎ」などをはらむ「非現実」として「周縁」に追いやられる(周縁化(マージナライズ)ことになる。「近代」以前の伝統的な社会においては―「中心」は「周縁的現実」の「排除」によって成立し、「周縁」は「祝祭(祭り、演劇、芸能)」の場などにおいて「中心」を「異化」し「活性化」する働きをなす―というような形で、きちんと「機能」してきた。。。「中心」と「周縁」の相互作用は「秩序」と「混沌」の相互作用に置き換えられることができたのである。 これはこれで、システムとしてうまく循環し「機能」として社会内部での有用性が確保されていた。 ところが、 近代 社会になると、「中心」と「周縁」の対立はそのまま「日常性」と「非日常性」の対立と重なり合うことになる。そこでは、「非日常性」は「周縁」へと一方的に「排除」される図式に固定化されるようになるからである。―「中心」と「周縁」という図式をそのまま「近代」以前の社会に適用するとき、これらはかなり曖昧になる。「近代」以前の社会―殊に伝統的な「未開社会」の多くで、「中心(コスモス)」は非日常的な「特異点」であり、「日常的秩序」から外れるのである。 コスモス/ノモス/カオス の三分法を用いれば、現象的には、中心は「コスモス(cosmos 聖なる秩序)」と結びつき、「カオス(chaos 混沌)」は「周縁」に排除され、その中間に、「コスモス(聖なる中心)」によって正当化され、「カオス(周縁)」によって活性化される 「ノモス(nomos 日常的秩序)」があるとも言える。しかし、「聖なる中心(コスモス)」でも「混沌(カオス)」でもない、一貫性を持たない「ノモス(日常的秩序)」の中から「政治力学(イデオロギー)」によって「中心(コスモス)」や「周縁(カオス)」という「特異点」が合成されるという状況が「近代」以降の社会を覆っている。「近代社会」には、日常的秩序を正当化するための中心となる「コスモス」が欠落し、「ノモス」は、単に秩序の正当化のための底の浅い原理 (「良心」とか「人間性」「合理性」など?)に依って立つ羽目になる。中心となる「コスモス」が欠落し、「カオス」によって活性化される「ノモス」の働きが機能できない―というところにまで到っていることになる。要は、 「近代合理主義」によって、「コスモス」あるいは「コスモロジー」なるものが抹消させられた結果として、平板化された「日常的現実」のみが「生の営み」の中心になってしまったということである。本来は、両義的/多義的な多様な 「経験的現実」 があるにもかかわらず、それらは排除の対象におとしめられている―のである。いかなる体験も「是」であるべきを、「日常的現実」に外れるものは社会的に認知されない―「病」や「異常性」として排され、囲い込まれる対象に甘んずることになる。。。―とまぁ、ここまで書いて…やっぱり「誤読」してしまったな...「しまった」と思う…。―が、とりあえず、投稿してしまおう。
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